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「隣人だから愛するのでは無く、愛するから隣人になる

私たちは、誰かに自分を愛させることはできません。だからこそ、愛には意味があります。愛とは、相手からの一方的、かつ無償の贈り物であり、自分から要求して強制的に愛させたり、愛されたからといって何かを見返りに要求したりするものではありません。愛は、この一方向性ゆえに尊く、その無償性ゆえに、愛される者を喜びに満たします。私たちは、誰かに自分を愛させることはできませんが、誰かを愛することはできます。だからこそ、愛には意味があります。驚くべきことに、私たちは、愛することで、もうひとりの誰かを喜びに満たすことができます。そして、誰かを愛して喜びで満たすころに、神の国の扉が開かれていきます。ルカ10章25~37節の「善きサマリア人のたとえ」は「隣人を愛しなさい」と言うイエスに対して、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と問い返す律法の専門家に向かって、イエスが語ったたとえ話しです。このたとえでイエスが言いたいのは、「隣人だから愛するのでは無く、愛するから隣人になる」ということです。隣人に、説明など必要はありません。ただ愛しなさい、あなたが隣人になりなさい、それが永遠の命をもたらす、ということなのです。

このたとえ話しに登場する、追いはぎに襲われた旅人は、おそらくユダヤ人でしょう。きっと、軽蔑しているサマリア人に助けられるなどとは夢にも思っていなかったはずです。しかし、まるで親友か家族のようにサマリア人に介抱されて、一命をとりとめます。では、このユダヤ人とサマリア人は、その後、どうなったのでしょうか。どんみち、たとえ話しなので、その後日談など想像するしかないのですが、私は、彼らが、真の友人になったと思います。きっと、このふたりは、生涯の友として、神の国の喜びを分かち合ったことでしょう。そして、その喜びは、「わたしの隣人とは誰ですか」などと問う人には決してわからない、真実の喜びなのです。目の前に倒れているひとりの人との間に一瞬通う、愛の心。それは、本当に一瞬のことかもしれません。しかし、自分のことのように心を痛めて、駆け寄って声をかけるその一瞬の愛の業によって、神の国の扉は開かれていくのです。実は、私たちも、この「善きサマリア人」のように、誰かを無償で愛することができます。苦しむ人々のもとに駆け寄り、具体的な愛の業で、その傷を癒すことが出来ます。十字架の上のイエスから、一方的かつ無償な愛を注がれたからです。さあ、私たちも、現代の「善きサマリア人」となるために、教会から出かけていきましょう。神の国の扉は、いつも目の前にありイエスは、声高らかに告げています。「行って、同じようにしなさい」(ルカ 10章37節)。 (牧師欄リストに戻る)

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