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「『今夜』が来る前に」

「命」とは、何でしょうか。命については、人それぞれに異なった考えや意見があることと思います。私は、命を「自分がまだ使える時間」と捉えています。
一般的に、私たちは、若者には、まだ、たくさんの時間が残されており、老人には、残された時間は少ないと考えています。しかし、昨今のような思いがけない災害や事故や病気、たとえば、熊本・大分を襲った大地震やブラジルのジカ熱などを経験しますと、私たちは、年齢とまだ使える時間とが、必ずしも一致するものではないことに気づかされます。だからこそ、「今日」という、今、確実に手元にある時間を、丁寧に心を込めて生きていくことが大切なのです。

ルカ福音書12章13〜21節は、「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれています。この金持ちからは、どこかしら、孤独がにじみ出ています。なぜなら、この金持ちは、たくさんの穀物や財産を独り占めするだけで、その恵みを、誰とも分かち合おうとしないからです。きっと、この金持ちは、独りなのでしょう。このたとえ話には、金持ちの家族の匂いがしません。
この金持ちは孤独で、その心の空しさを埋めるかのように、必死に働いて富を築きました。しかし、富で、心の空しさを埋めることはできませんでした。なぜなら、神の愛から生まれた人の心を満たすことができるのは、愛だけだからです。
しかし、よくよく考えてみれば、私たちの誰もが、この金持ちと同じように、富や名声では埋めることのできない「心の空しさ」を、抱えながら生きているのではないでしょうか。そんな私たちのために、主イエスは、分かち合えば分かち合うほどに、かえって愛が生まれてくる世界を教えてくれました。そして、わずかな富でも、分かち合うことで、心が愛で満たされるならば、そのときの私たちは、きっと、神の前に豊かになっていくのです(ルカ12章21節)。

神は、金持ちに対して、「今夜、お前の命は取り上げられる」と告げました(ルカ12章20節)。この言葉は、少し恐ろしさを感じさせますが、しかし、大切な事柄にも気づかせてくれます。もし、本当に、今夜、命を取り上げられるとしたら、日頃は「同じことの繰り返し」としか感じられない生活や仕事が、新しい輝きを放ち始めるのではないでしょうか。「今夜が最後かもしれない」と思いつつ、一つ一つの業に、心と愛を込めていくときに、私たちのすることは、丁寧になっていくはずです。「今夜、お前の命は取り上げられる」という言葉は、ついつい決まり事になって、感動を失ってしまいがちな、当たり前の事柄に、新鮮さを与えてくれます。
私たちには、まだ命があります、まだ使える時間があります。大切なのは、その時間を、誰のために、何のために使うのか、ということです。願わくば、神から与えられた恵みの時間を、人と分かち合いながら、愛の内に過ごしていきたいと思います。そして、本当に天に召される「今夜」が来たときには、心安らかに、その「今夜」を迎えたいと心から願うのです (牧師欄リストに戻る)

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