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「クリスマスの星を探して」

「神の前では、人生に小さいものも大きいものもない。ただ、まっすぐなものと曲がったものがあるばかりだ」(トルストイ著『光あるうち光の中を歩め』より)。

 まっすぐであること。これこそ、信仰の本質です。信仰とは、聖書の正しい理解や善い行いである以前に、神の前に、まっすぐであることなのです。
理解や行いは、人間の業です。だから、必ずどこか曲がっています。ちゃんと理解したつもりでも、思い込みや勘違いがあります。そのために、人と争ったり、神を見失ったり。ちゃんとしたつもりでも、やり過ぎたり、やり損なったり。そのうちに、人を傷つけたり、神を傷つけたりしてしまいます。人間は、どこか曲がっているために、本来流れるべきものが、まっすぐに流れていません。
信仰とは、個々の理解や行いではなく、まっすぐな状態のことです。人と神とがまっすぐにつながっている状態。まっすぐになりたいという人間の憧れと、まっすぐにしてくださる神の思いがひとつに結ばれている状態です。これこそが、人の本来あるべき姿です。これに対して、「罪」とは、人間のどこかが曲がっているために、本来なら、まっすぐに流れるべき何かが流れていない状態のことなのです。

 ルカ福音書に、次のようなイザヤ書の言葉が引用されています。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」(ルカ3章4〜6節)。
この聖句の意味を一言で言えば、「邪魔を取り除こう」ということでしょう。
神の救いは、いつも私たちのもとへと、まっすぐにやってきます。しかし、途中に、谷があったり、山や丘があったりして、それを邪魔しています。だから、谷は埋めて、山や丘は低くして、でこぼこの道は平らにして、邪魔を取り除けば、神の救いは、まっすぐにやってきます。そうすれば、人は皆、神の救いを仰ぎ見ることができるようになるのです。
ここで大切なのは、「神の救いの邪魔をしているものは何か」ということでしょう。それは、もしかしたら、私たちの思い込みや勘違い、さらには、他人への憎しみやこの世への執着心かもしれません。そんな邪魔を取り除いて神の救いを待ち望もうと、ルカは訴えかけています。そんな邪魔さえ取り除けば、神の救いは、まっすぐに、私たちのところにまで届きます。そして、神とまっすぐにつながりたいと憧れる私たちを、神は、必ず助けてくれます。誰でも、神の前にまっすぐになれるのです。
どんなときも、ただ神の救いを信じて、人生をまっすぐに歩んでいきたいと心から願うのです。(牧師欄リストに戻る)

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