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「幸いあれ!」

「あなたたちは、幸い!」
イエスは、この一言を言うために生まれてきました。

 マタイ福音書におけるイエスの最初の説教は「山上の説教」であり(マタイ5〜7章)、その「山上の説教」における最初の説教は、幸いの説教であり、その第一声こそが、この「あなたたちは、幸い」です。つまり、すべては、この幸いの祝福から始まりました。イエスの口からあふれてくる圧倒的な祝福から。
わたしたちは、自分では何ひとつとして自分を富ませることができないような、弱くて貧しい存在です。この世に何も持たずに生まれてきて、生きる意味に悩み、愛を求めてさまよい、はかないこの世のモノにこだわっています。そんなわたしに、イエスは惜しみなく祝福を与えてくれました。「あなたに、幸いあれ!」と。この祝福によって、わたしは生きる者となり、真実の幸いを知りました。イエスは、わたしを、あなたを、祝福するために、この世に生まれてきたのです。

イエスの祝福は、人を選びません。たとえ、どんなに弱くても、どれほど罪深くても、イエスの祝福を受けるにふさわしくない人など、この世に一人もいません。なぜなら、神の祝福は、一切無条件で、すべてに先立っており、すべての人を満たす祝福だからです。そして、人は、この祝福を受けるために生まれてきます。つまり、人は、イエスと出会うために生まれてくるのです。
福音書は、イエスと出会うための書です。福音書自体がイエスの言葉であり、福音書を開けばそこからイエスの祝福があふれ出てきます。福音書を開いていながら、幸いの祝福を感じられないとしたら、実はそれは福音書ではないか、もしくは福音書だけれども読み方を間違えているか、どちらかでしょう。福音書は、人を裁くための法律集ではありません。福音書は、選ばれた人が勉強するための専門書でもありません。福音書は、誰もがイエスと出会って、イエスの祝福を受けるための幸いの書なのです。

だから、今、悲しんでいる人にこそ福音書を開いてほしい。イエスに出会って、イエスが与えてくれる幸いの祝福を受けてほしい。これこそが、涙を乗り越えていく唯一の道です。
イエスは、声高らかに宣言しています。「悲しむ人々は、幸いである」と。言いたいことは、とても単純です。
「悲しんでいるあなたにこそ、幸いあれ!今、あなたに、どんな悲しみも喜びに変える祝福を与えよう。わたしは、天の父の永遠の祝福そのものである。この祝福だけが、あなたを慰めることができる。わたしを信じなさい」。 (牧師欄リストに戻る)

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