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「本当の上座」

「(律法学者たちは)会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み・・・」
(マルコ福音書12章38節)
「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」
(マルコ福音書12章43節)

牧師という仕事柄、ときどき、結婚披露宴に招かれます。座らされるのは、たいてい上座です。そこには、会社の上役や大学の教授と言った、いわば「上座な人たち」が座っています。みんな招待客で、好き好んで上座に座っているわけではないのに、彼らの顔はどこか誇らしげで、周囲も丁重に扱ってくれます。

なぜ、人の世には、上座などというものがあるのでしょうか。そして、なぜ、人は、上座に座りたがるのでしょうか。決して、楽しい席ではないのに。それは、きっと、他人から認められ、尊ばれなければ、自分には価値がないと思い込んでいるからでしょう。そのような人にとって、上席は、わずかな時間とはいえ、他人から敬われたいという自分の欲求を満たしてくれる大切な場所なのです。しかし、現実には、どんなに苦労して上席に座っても、誰も思ったようには尊敬してくれません。だから、人は、ますます必死になって、上席を目指します。どんなに上席という幻を追い続けても、決して、欲求が満たされることはないと気がついていながら。

ある日、イエスは、賽銭箱の向かいに座って、群衆が金を入れる様子を見ていました。その眼差しは、とても純粋です。人のすべてを正しく見抜き、すべてを愛で見つめます。その眼差しの中、ひとりの貧しいやもめが、全財産であるレプトン銅貨2枚を、2枚とも献金しました。1枚は、自分のために残すこともできたのに。
しかし、彼女には、もはや、わずかな金を手元の残しておく必要がありません。自分が神に愛され、神に見守られていることを、すでに知っているからです。神に見守られているのなら、自分のために何を残す必要があるでしょう。むしろそこには、生活費すべてを神のために手放すからこそ得られる神との深い交わりがあり、幸せな世界に生きる喜びがあります。貧しく、無名で、誰からも敬われなくても、このやもめは、真実の満足を知っています。
本当の上座は、言うまでもなく、イエスのおられるところです。そこは、何の肩書きもいらないところ。安心して「持っている物をすべて」差し出せるところ。人生の苦しみの中でも、神の愛を信じ、「だれよりもたくさん入れた」やもめこそが、永遠に敬われるところなのです。 (牧師欄リストに戻る)

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