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「誰かのために、何かしたい」

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
(マタイ福音書25章40節)

「誰かのために、何かしたい」。こんな思いを、誰もが心の内に秘めています。この「誰かのために、何かしたい」という熱くて純粋な思いは、間違いなく、イエスの思いそのものです。
イエスは、弟子や罪人のために、さらには、裏切り者や敵のためにも、「何かしたい」と思って、その身に十字架の釘を受け入れ、愛と救いを実現されました。私たち一人一人も、そんなイエスの思いに守られて、教会に集っています。そして、イエスは、今も、泣いている人や飢えている人、傷ついている人のために「何かしたい」と思っています。私たち、キリストの教会は、少しでもいいですから、そんなイエスの思いを具体的に表していきたいと願います。

上記の聖書箇所は、2017年の年間聖句です。ここで、イエスは、貧しく苦しめられている「小さい者」こそが、イエス自身であると語っています。このように考えてみるなら、イエスの死から2000年を経た今でも、たくさんの「小さなイエスたち」が迫害されたり、抑圧されたりしているのではないでしょうか。それは、現代では、必ずしもクリスチャンではないでしょう。そのような人たちへの対策は、政治や経済の領域で解決されると考えられがちですが、しかし、本当は、私たちが、「小さなイエスたち」を他人事とせず、彼らのために「何かしたい」と思うところから、すべては始まっていくのです。
ここで大切なのは、「誰かのために、何かしたい」と思うときに、この私を通して、その「何か」は必ず実現すると信じることです。「誰かのために、何かしたい」という思いで生きているとき、すごく不思議な形かもしれませんが、それは必ず実っていきますし、その思いは、決して無駄にはなりません。「誰かのために、何かしたい」という熱くて純粋な思いこそが、神の奇跡を呼び込むのです。

イエスは、はっきりと宣言しています。
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」(マタイ福音書18章10節)。
この世の中が、どのような状況にあろうとも、私たちは、さわやかに天を仰ぎ見ます。そして、神に、こう祈ります。
「神よ、今日一日、あなたが愛している最も小さなひとりを大切にすることができますように、私を導いてください。あなたは、そのために、私にこの一日を与えてくださったのです。」
2017年は、まず、このように祈るところからから始めていきましょう。名前も知らない、顔も知らない、会ったこともない人たちのために祈り続ければ、きっと世界は、もっとやさしくなれます。 (牧師欄リストに戻る)

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