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「神の願い、私たちの願い」

「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。』」
(マルコ福音書10章38節)

 「その人が何を願っているのか」が、「その人がどういう人物なのか」を最もよく表しています。

 財産、権力、健康、成功、勝利、平穏・・・。心の奥の根源的な願いこそが、その人を深いところで支配しています。ですから、何かの折にそれが顔を出すと、人々は「この人は、こういう人物だったのか」と気づきます。
かつて私は、立派なスーツを着た紳士が、新幹線切符の窓口で、横柄な口調で声を荒げているのを見かけたことがあります。要するに彼は、「もっと客を大切にしろ、もっとオレを丁重に扱え」と言っているわけで、この人は、ともかく、他人から敬意を払われることを強く願っている人物なのでしょう。

 兄弟でイエスの弟子となったヤコブとヨハネは、自分から進み出て、イエスに特別な地位を願います。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。先生が政権を奪取したあかつきには、他の弟子ではなく、ぜひ、わたしども兄弟を閣僚にしてください、というわけです。改まって、わざわざ願い出るということは、それが二人にとって、何をおいても重要な願いだったのでしょう。しかし、その願いによって、まさに「二人がどういう人物であるか」が、白日のもとにさらけ出されてしまいました。愛する弟子たちから、そんな願いを聞かされて、イエスは、どのように感じたでしょうか。
しかし、イエスは弟子たちを決して見捨てません。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と、厳しくも、やさしく教え諭します。イエスの使命は、弟子を育てることにあるからです。
イエスは、弟子たちを、目先のものではなく、真に尊いものを願うという、聖なる願いに導こうとします。そして、尊くて聖なる願いの極みは、神の願いをおいて他にありません。つまり、イエスは、弟子たちを、神の願いを願う者にまで育てようとしているのです。
間もなく、イエスは、ゲツセマネの園で、願いの模範を弟子たちに示します。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ福音書14章36節)。

 実は、私たちは、神の子として、神に何を願ってもいいのです。ただし、最後にこう付け加えるならば。「あなたの御心のままに」と。この一言を通して、天の神の本当の願いに目覚めていきたい。そして、神の願いを願う者になっていきたいと心より願うのです。(牧師欄リストに戻る)

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