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「今日わたしと一緒に楽園にいる」

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23章43節)

ひとりの女性の死を思い出します。当時、私は、牧師になったばかりで、教会員の死に立ち会うという初めての経験に緊張し、なすすべもなく枕元に立ち尽くしていました。しかし、ご長女はちがいました。彼女は、母親の手を握り、その耳元で讃美歌「主よみもとに近づかん」を歌っていました。愛する母のために万感の想いを込めて信仰の歌をささげるその声は美しく、今も耳に響いています。母親にしてみれば、愛する娘の歌う讃美歌に包まれて天に召されていったわけで、うらやましい気さえします。

そして、ふと、我が身を振り返って思います。この自分の臨終のときには、だれが私の手を握り、讃美歌を歌ってくれるのだろう。37歳・独身の私には、最期を看取ってくれる妻も子どももいないのですが。

元気なときには、人は一人でも生きていけます。むしろ、一人の方が気楽だなんてことさえ言えるでしょう。しかし、ひとたび試練に出遭い元気を失うと、人は、もう一人のだれかを求めます。病気の苦痛や死の恐怖にとらわれる臨終のときには、なおさら、人は、そばにいてくれるだれかを求めます。何があっても一緒にいてくれる、真に信じられるだれかを。 その夢のような「だれか」を、私たちは「救い主イエス」と呼んで、信じています。人生で最もつらいとき、助けを必要とするときにそばにいて、やさしく語りかけ、この手を握りしめて天国まで導いてくれる方が、確かにいると信じています。

臨終のときに、そんな救い主がいてくれれば、何一つ心配はありません。たとえ妻も子もいなくても、すべての人から見捨てられ独りぼっちで死を迎えることになろうとも、その救い主さえ信じていれば、私たちの人生のすべては祝福され、永遠の希望のうちに、神の御心を受け入れることができるはずです。 キリストが十字架に架けられたとき、その両側に二人の犯罪人も十字架に架けられました。その一人は、自らの体の痛みと罪深さ、死の恐怖を抱えながら、隣りにいるイエスに救いを求めます。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」 すると、イエスはこたえます。

「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」 この「あなた」とは、実は、私たち一人一人であり、その「今日」とは、私たちの毎日です。キリストの十字架上の宣言によって、私たちはすでに救われているのです。

もし、今、これを読んでいる人の中で、体の痛みや死の恐れを抱えている方がいるのなら、そんなあなたにこそ、ぜひ気づいてほしい。あなたの隣りには、同じ痛み、同じ病を負った救い主が、すでに一緒にいることを。そして、心からの信頼を込めて、「主よ、わたしを忘れないでください」と祈ってほしい。主は、必ずこたえてくれます。 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。 このキリストの福音は、絶対です。(牧師欄リストに戻る)

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